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私の愛しいアップルパイへ
数世紀にわたって、いやそれ以上かもしれないが、とにかく音楽を取りまく世界における最大の誤謬は「音楽は感情を描写し、それによって感情を共有するものである」とする考えである。
もちろん音楽は人に影響を与え、人の感情を突き動かすだろう。しかし、だからといって音楽そのものの内容が特定の感情を描写するものである必要はないのだ。ここは明確に分けて考えられなければならない。
なにより致命的なのは、感情を描写し人々と共有しようとする欲求が、音楽の根底にあるはずの衝動を、あの初期衝動を薄めてしまう点である。いや感情の描写と共有を試みれば、間違いなく表現の根底を支える衝動を丸めてしまうだろう。
さらに、この「音楽とは感情を描写し、それによって感情を共有するものである」とする考えはエスカレートし、それを言葉や視覚的なイメージを使って助長しようとし始める傾向にある。それは興ざめというものだ。
太陽の光を見れば、人は勝手にその光の中に祝福を感じるかもしれないし、憎しみを感じるかもしれない。しかしそれは太陽が感情を描写しようとした結果ではないのだ。太陽はただ自然に、純粋な状態でそこにあることで美しい。
かくの如く、音楽は自然で純粋であるべきだ。特定の感情を無理に描き出そうとしたり、演じようとしたり、同じ感情を多くの人と共有しようとする必要はない。これらはすべて後づけに過ぎない以上、害悪なものである。音楽は表現したいという自然かつ純粋な初期衝動のもとで、人の感情を自然かつ純粋に突き動かす。
その点においてハンスリックの音楽美論は正しかった。
音楽はささやくことも、荒れ狂ふことも、颯々の響きを立てることも出来る。然しながら愛情と憤怒とは唯我等自身の心が音楽の中へ移入したものに過ぎない。
一定の感情又は情緒を描写すると云ふ事は音楽自身の能力の中に断じて存在するものでは無い。
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▼今日の1曲は製作中のEdward。順調に育っている。
貴下の従順なる下僕 松崎より