私の愛しいアップルパイへ
1986年3月11日生まれ。28歳。神童になるには遅すぎる年齢です。
システム屋から音楽家へ舵を切るまでの10本の分かれ道
最初の分かれ道は10歳の頃でした。私の記憶が正しければテレビか映画を観てたときです。ロックスターの歌いあげる音楽は醜くてやかましくて、爽快でした。そこにはぞっとするような感動がありました。私は間違いなく惹かれていましたが、何か恥ずかしいものとして見て見ぬふりをしたんです。
次の分かれ道は11か12歳の頃でした。当時仲の良かった友人に、音楽活動を始めてみないか持ちかけられたのがきっかけでした。頭の片隅にはロックスターの残像。私はワクワクしながらも曖昧に承諾し、言い出しっぺであった彼の積極的な動きに期待しながら、話はうやむやのまま無くなりました。
3つ目の分かれ道は、中学校に入学した直後でした。私は少しでも音楽に触れてみたくて吹奏楽部に惹かれていましたが、行動に移すことはありませんでした。部員に男子が居なかったという理由だけで。
4つ目の分かれ道は中学三年生の学習塾の帰り道。何故そんな話になったのかは覚えていませんが、車の中で母親から将来どんな職につきたいか聞かれました。私はなんて答えたかって?忘れましたが、音楽家になるとは言えませんでしたよ。
5つ目の分かれ道は、15の頃に友人に声をかけられて組んだコピーバンドでした。このバンドもリーダー任せにして、自分は責任を負わないようにして、形にならないまま消滅しました。
6つ目の分かれ道は、高校に入学後に習い事として始めたギター教室でした。習いはじめて数ヶ月後、私ははじめてのオリジナル曲をMDに持参して持ち込んだんです。いつも通り教室が始まっても恥ずかしくてMDは渡せず、終わったときにもついに渡せませんでした。いまでもあの部屋を思い出します。
7つ目の分かれ道は18の頃、高校卒業後の進路を決めるときでした。音大に目指す選択肢だって十分にあったのに、「今さら無理だ。もう遅い。」と挑戦もせずに諦めました。結局、父親より詳しかったからという浅はかな理由で、システム系の専門学校に入りました。
8つ目の分かれ道は20の頃でした。専門学校の卒業が迫って就職活動が始まった頃でした。とりあえずシステムエンジニアになって、その後のことはその後に考えようなんて妥協しました。私は自分が少しずつ少しずつ小さくなっていく気がしていました。
9つ目の分かれ道は23の頃、就職して3年が過ぎて会社に勤め続けることに疑問を抱き始めた頃でした。仕事にも嫌気がさしていて、いっそ会社なんて辞めちまおうと思いました。私は直属の上司に辞める意志を伝えましたが、結局説得されてメソメソと戻ってきました。自分で自分を裏切ったあの時は、さすがにこたえました。
10にまでなった分かれ道は24歳の頃、システムエンジニアになって5年が経った頃でした。組んでいたバンドはファンが増えずに赤字続きで解散。仕事はそれなりに順調でしたが刺激に欠ける毎日でした。休日は退屈でした。
それから2年間、実に鬱屈とした毎日を過ごしました。空いた時間といえば、昼寝したり、映画を観たり、しょうもないパーティーや合コンに行ったりして「時間よはやく過ぎ去れ!」と叫び続けていた頃でした。考えられますか?「時間よはやく過ぎ去れ!」だなんて!そんな惨めな生き方を私は他に知りません。
そして、11本目の分かれ道。忘れもしない25歳の夏。私はマンションの片隅で人知れず生涯かけて音楽家の道を歩むことを決意しました。それは、生まれて初めて夢を諦めるべきか真剣に苦悩してだした結論でした。
いっそ音楽家なんて諦めてシステム屋として残りの数十年を生きることを想像してみたんです。そのとき、胸が引き裂かれるような気がしました。それで、気づいたんです。胸が引き裂かれるような気がするほどの夢を諦めてまで優先すべき何かがあるか?答えは「否、否、三たび否!」でした。
夢を真っ正面にとらえるまで10本の分かれ道。それも、ようやく向き合えたのは、夢を諦めるかどうかの瀬戸際でした。怒りと呆れを通り越して笑ってしまうくらい鈍感な人間です。
どんな夢だろうとチャンスはこれから何度だってある!!
1986年3月11日生まれ。28歳。若いという訳ではありませんが、幸い余命わずかという訳でもありません。
いいえ、そもそも諦めきれない夢に向かうのに早すぎるなんてことも、遅すぎるなんてこともないはずです。
そうでしょう?
貴下の従順なる下僕 松崎より