私の愛しいアップルパイへ
私の幼い頃の記憶の中で、今でも鮮明に覚えているもののうちの1つが「人に与える印象についての得体のしれない恐怖感」です。最も古い記憶を辿ってみても、3 つになるよりも前から強く抱いていた恐怖感でした。
私は「人にどう思われているか」について、特に「人に悪く思われていないか」について人一倍敏感な子供でした。それは常に「恥」を恐れているような状態でした。
≪思えば人に与える印象に対する強い恐怖感に振り回されてきた≫
例えば、私はいつでも食事の中で一番美味しそうなものを一番最後まで残すように心がけていました。それは、はやく食べ終えた他の誰かにその食べ物をもう一口欲しいとお願いされたときに、自分が食べ終わってしまっていたら困ると思っていたからです。
両親と遊園地のヒーローショーを観にいき、ステージに上がることのできる数少ない子どものうちの1人として選ばれたときは、いつになく号泣してステージに上がることを断固拒絶しました。まわりの人は悪者役の風貌が怖くて泣いたんだと微笑んでいたようですが、実際にはステージなんかに上がって他の子どもや他の親たちに妬まれるのが怖かったのです。
近くのデパートで母親の買い物を待っている間、100円のお小遣いを貰ってメダルゲームをやって良いことになりました。しかし、私は私の近くにお金がなくてメダルゲームができない他の子供が居るのが気になって、なかなかメダルゲームを始めることが出来ませんでした。結局、私は自分でメダルゲームをやらずに、ゲームをやりたそうにしていた近くの子に100円をあげてしまいました。
これらは私が特別親切だったり優しかったりしたわけでなく、人に与える印象に対する強い恐怖感から出た行動でした。
「馬鹿だと思われたらどうしよう?」「嘲笑されたらどうしよう?」「妬まれたらどうしよう?」
この恐怖は成長してからも私をとらえ続け、私の性格の一部になりました。今ではだいぶ克服したと思っていますが、まだ考え方の底辺に根強く残っているという意識もあります。
とにかく、私にとって人生とはひどく窮屈なものでした。いつでも人の顔色を伺っていて、ひどく反応的な生き方をしていたのですから。まるでそれが生きる上での絶対条件とでもいうかように。
≪音楽から受け取った開放と勇気の物語≫
10~15歳くらいの頃、テレビか映画を観たのが切っ掛けで音楽の世界に興味を持ちました。色んな種類の音楽を聴きましたが、特に私が好き好んだのは、綺麗じゃなくて、整ってなくて、格好良くなくて、心地良くない音楽でした。
私はこんな不気味な音楽がなぜ私にとってこんなにも蠱惑的に響くのか不思議に思いつつ、のめり込みました。今ならその理由が分かります。ひどく窮屈なはずの人生の中で、彼らだけは「人にどんな印象を与えるか」なんてことに囚われず、自分の衝動に従順で、自由で、無我夢中に生きているように見えたからです。そこに私は、いままでの私の人生にはなかった美しい生命の輝きをはじめて見たのでした。
私が愛した音楽の、自由で、純粋で、爽快な響きは、私に開放と勇気を与えてくれました。そして、私が彼らに憧れ、彼らのような存在になるんだという使命感を持つようになったのは、今思えば実に自然で賢明な発想だったと思います。
音楽は想いを伝えるか?音楽は世界の共通言語か?音楽は世界を救うか??そんなことに私は興味ありませんし、どうでも良いことです。
重要なのは、音楽が私自身を救ったという事実であり、これからも救い続けると確信していることです。私が音楽の夢を追う理由は、それだけでもう十分です。
貴下の従順なる下僕 松崎より
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