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Wonderful Life – jMatsuzaki Factory https://factory.jmatsuzaki.com Wed, 22 Oct 2014 14:49:04 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.9.3 システム屋から音楽家へ!どんな夢だろうとチャンスはこれから何度だってある!! https://factory.jmatsuzaki.com/wonderful-life/567 Tue, 01 Jul 2014 14:30:46 +0000 http://factory.jmatsuzaki.com/?p=567 SFFf-1989091.0D 046

私の愛しいアップルパイへ

1986年3月11日生まれ。28歳。神童になるには遅すぎる年齢です。

システム屋から音楽家へ舵を切るまでの10本の分かれ道

最初の分かれ道は10歳の頃でした。私の記憶が正しければテレビか映画を観てたときです。ロックスターの歌いあげる音楽は醜くてやかましくて、爽快でした。そこにはぞっとするような感動がありました。私は間違いなく惹かれていましたが、何か恥ずかしいものとして見て見ぬふりをしたんです。

次の分かれ道は11か12歳の頃でした。当時仲の良かった友人に、音楽活動を始めてみないか持ちかけられたのがきっかけでした。頭の片隅にはロックスターの残像。私はワクワクしながらも曖昧に承諾し、言い出しっぺであった彼の積極的な動きに期待しながら、話はうやむやのまま無くなりました。

3つ目の分かれ道は、中学校に入学した直後でした。私は少しでも音楽に触れてみたくて吹奏楽部に惹かれていましたが、行動に移すことはありませんでした。部員に男子が居なかったという理由だけで。

4つ目の分かれ道は中学三年生の学習塾の帰り道。何故そんな話になったのかは覚えていませんが、車の中で母親から将来どんな職につきたいか聞かれました。私はなんて答えたかって?忘れましたが、音楽家になるとは言えませんでしたよ。

5つ目の分かれ道は、15の頃に友人に声をかけられて組んだコピーバンドでした。このバンドもリーダー任せにして、自分は責任を負わないようにして、形にならないまま消滅しました。

6つ目の分かれ道は、高校に入学後に習い事として始めたギター教室でした。習いはじめて数ヶ月後、私ははじめてのオリジナル曲をMDに持参して持ち込んだんです。いつも通り教室が始まっても恥ずかしくてMDは渡せず、終わったときにもついに渡せませんでした。いまでもあの部屋を思い出します。

7つ目の分かれ道は18の頃、高校卒業後の進路を決めるときでした。音大に目指す選択肢だって十分にあったのに、「今さら無理だ。もう遅い。」と挑戦もせずに諦めました。結局、父親より詳しかったからという浅はかな理由で、システム系の専門学校に入りました。

8つ目の分かれ道は20の頃でした。専門学校の卒業が迫って就職活動が始まった頃でした。とりあえずシステムエンジニアになって、その後のことはその後に考えようなんて妥協しました。私は自分が少しずつ少しずつ小さくなっていく気がしていました。

9つ目の分かれ道は23の頃、就職して3年が過ぎて会社に勤め続けることに疑問を抱き始めた頃でした。仕事にも嫌気がさしていて、いっそ会社なんて辞めちまおうと思いました。私は直属の上司に辞める意志を伝えましたが、結局説得されてメソメソと戻ってきました。自分で自分を裏切ったあの時は、さすがにこたえました。

10にまでなった分かれ道は24歳の頃、システムエンジニアになって5年が経った頃でした。組んでいたバンドはファンが増えずに赤字続きで解散。仕事はそれなりに順調でしたが刺激に欠ける毎日でした。休日は退屈でした。

それから2年間、実に鬱屈とした毎日を過ごしました。空いた時間といえば、昼寝したり、映画を観たり、しょうもないパーティーや合コンに行ったりして「時間よはやく過ぎ去れ!」と叫び続けていた頃でした。考えられますか?「時間よはやく過ぎ去れ!」だなんて!そんな惨めな生き方を私は他に知りません。

そして、11本目の分かれ道。忘れもしない25歳の夏。私はマンションの片隅で人知れず生涯かけて音楽家の道を歩むことを決意しました。それは、生まれて初めて夢を諦めるべきか真剣に苦悩してだした結論でした。

いっそ音楽家なんて諦めてシステム屋として残りの数十年を生きることを想像してみたんです。そのとき、胸が引き裂かれるような気がしました。それで、気づいたんです。胸が引き裂かれるような気がするほどの夢を諦めてまで優先すべき何かがあるか?答えは「否、否、三たび否!」でした。

夢を真っ正面にとらえるまで10本の分かれ道。それも、ようやく向き合えたのは、夢を諦めるかどうかの瀬戸際でした。怒りと呆れを通り越して笑ってしまうくらい鈍感な人間です。

どんな夢だろうとチャンスはこれから何度だってある!!

1986年3月11日生まれ。28歳。若いという訳ではありませんが、幸い余命わずかという訳でもありません。

いいえ、そもそも諦めきれない夢に向かうのに早すぎるなんてことも、遅すぎるなんてこともないはずです。

そうでしょう?

貴下の従順なる下僕 松崎より

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私の描く音楽家の理想の姿 https://factory.jmatsuzaki.com/wonderful-life/530 Tue, 27 May 2014 13:52:41 +0000 http://factory.jmatsuzaki.com/?p=530 63H

私の愛しいアップルパイへ

前職であるシステム屋の生活が5年目を迎えた頃、私は夢を諦める寸前で立ち尽くしていました。バンドは解散、不安で気力もわかず、仕事はハード。右も左も真っ暗に見えました。

あの日、私はさんざ悩んだあげくに、2つのことを断念し、1つのことを決意しました。そのときの話をしましょう。

思えばあのとき、「バンドで食う」と漠然と考えていた私は、生まれてはじめて音楽家になるという自分の夢と真剣に対峙したのかもしれません。

◇音楽家にとって最高の幸せとは?

音楽家にとって最高の幸せとはなんでしょうか。音楽家の夢と言い換えてもいいです。

スタジオで演奏し続ける道もあります。舞台で歌うたいになる道もあります。会社に雇われて曲をつくったり、アレンジしたりする道もあります。同志とともにバンドを組む道もあります。

私にとっては、単に自らの純粋な音楽的衝動を、恥ずかしげもなく遠慮なく解放することでした。

以下の記事でもお話しましたが、それまで他人の目にとらわれて遠慮がちに生きてきた私にとって、それは純粋に「生きる」ということと同義でした。

「自らの音楽的衝動に従順であること」。ただ、これは単純ながらも実に難しい命題でもあります。

自らの音楽的衝動を貫こうとして、志なかばで死を迎えた芸術家の例をあげればきりがありません。だからこそ尊い夢でもあります。

ゴッホが生きながらえたなら?モーツァルトが生きながらえたなら?三島由紀夫が生きながらえたなら?

もしくは、社会の利害関係に取り込まれ、飼いならされたトイ・プードルみたいに衝動が丸まってしまう例も多いでしょう。

特に富や名声などの刹那的な快楽に抗うのは、人間にとって難しいものだからです。

◇断念した2つのことと、決意した1つのこと

冒頭の話に戻ります。断念した2つのことと、決意した1つのことの話です。

あのとき、断念した2つこととは「音楽で人に評価されようとすること」と「音楽で収入を得ようとすること」でした。

そして、その代わりに決意した1つのこととは「衝動のままに死ぬまで楽曲を作り続けること」でした。これが今の私の心の奥底にマグマを作っている源です。

私にとって音楽家になる夢とは、死ぬまで自らの純粋な音楽性を探求し続け、1つでも多くの楽曲をつくるということです。

山奥に篭って濃いコーヒーでも飲みながら、私の”屈折した美意識”を反映した楽曲をひたすら作り続ける。

そうしていれば、、、いえ、そうしているときだけは、今よりずっとスッキリした気分になれるはずです。

貴下の従順なる下僕 松崎より

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私が音楽の夢を追う理由 https://factory.jmatsuzaki.com/wonderful-life/519 https://factory.jmatsuzaki.com/wonderful-life/519#comments Sat, 24 May 2014 14:06:19 +0000 http://factory.jmatsuzaki.com/?p=519 私が音楽家になりたい理由

私の愛しいアップルパイへ

私の幼い頃の記憶の中で、今でも鮮明に覚えているもののうちの1つが「人に与える印象についての得体のしれない恐怖感」です。最も古い記憶を辿ってみても、3 つになるよりも前から強く抱いていた恐怖感でした。

私は「人にどう思われているか」について、特に「人に悪く思われていないか」について人一倍敏感な子供でした。それは常に「恥」を恐れているような状態でした。

≪思えば人に与える印象に対する強い恐怖感に振り回されてきた≫

例えば、私はいつでも食事の中で一番美味しそうなものを一番最後まで残すように心がけていました。それは、はやく食べ終えた他の誰かにその食べ物をもう一口欲しいとお願いされたときに、自分が食べ終わってしまっていたら困ると思っていたからです。

両親と遊園地のヒーローショーを観にいき、ステージに上がることのできる数少ない子どものうちの1人として選ばれたときは、いつになく号泣してステージに上がることを断固拒絶しました。まわりの人は悪者役の風貌が怖くて泣いたんだと微笑んでいたようですが、実際にはステージなんかに上がって他の子どもや他の親たちに妬まれるのが怖かったのです。

近くのデパートで母親の買い物を待っている間、100円のお小遣いを貰ってメダルゲームをやって良いことになりました。しかし、私は私の近くにお金がなくてメダルゲームができない他の子供が居るのが気になって、なかなかメダルゲームを始めることが出来ませんでした。結局、私は自分でメダルゲームをやらずに、ゲームをやりたそうにしていた近くの子に100円をあげてしまいました。

これらは私が特別親切だったり優しかったりしたわけでなく、人に与える印象に対する強い恐怖感から出た行動でした。

「馬鹿だと思われたらどうしよう?」「嘲笑されたらどうしよう?」「妬まれたらどうしよう?」

この恐怖は成長してからも私をとらえ続け、私の性格の一部になりました。今ではだいぶ克服したと思っていますが、まだ考え方の底辺に根強く残っているという意識もあります。

とにかく、私にとって人生とはひどく窮屈なものでした。いつでも人の顔色を伺っていて、ひどく反応的な生き方をしていたのですから。まるでそれが生きる上での絶対条件とでもいうかように。

≪音楽から受け取った開放と勇気の物語≫

10~15歳くらいの頃、テレビか映画を観たのが切っ掛けで音楽の世界に興味を持ちました。色んな種類の音楽を聴きましたが、特に私が好き好んだのは、綺麗じゃなくて、整ってなくて、格好良くなくて、心地良くない音楽でした。

私はこんな不気味な音楽がなぜ私にとってこんなにも蠱惑的に響くのか不思議に思いつつ、のめり込みました。今ならその理由が分かります。ひどく窮屈なはずの人生の中で、彼らだけは「人にどんな印象を与えるか」なんてことに囚われず、自分の衝動に従順で、自由で、無我夢中に生きているように見えたからです。そこに私は、いままでの私の人生にはなかった美しい生命の輝きをはじめて見たのでした。

私が愛した音楽の、自由で、純粋で、爽快な響きは、私に開放と勇気を与えてくれました。そして、私が彼らに憧れ、彼らのような存在になるんだという使命感を持つようになったのは、今思えば実に自然で賢明な発想だったと思います。

音楽は想いを伝えるか?音楽は世界の共通言語か?音楽は世界を救うか??そんなことに私は興味ありませんし、どうでも良いことです。

重要なのは、音楽が私自身を救ったという事実であり、これからも救い続けると確信していることです。私が音楽の夢を追う理由は、それだけでもう十分です。

貴下の従順なる下僕 松崎より

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https://factory.jmatsuzaki.com/wonderful-life/519/feed 1
jMatsuzaki Factoryの建設にあたって https://factory.jmatsuzaki.com/wonderful-life/191 Tue, 25 Feb 2014 13:55:32 +0000 http://factory.jmatsuzaki.com/?p=191 photo credit: Jerry Bowley via photopin cc

ああ、2014年2月25日がこんなに素晴らしい日になるなんて、昨日までは思いもしませんでした。世界は自愛に満ちています。ついに、この「jMatsuzaki Factory」が完成したのです!

この愛すべき工場の建設に込めた想いは、以下のProfileページに書いた通りですので、是非一度お目通しください。

Profile | jMatsuzaki Factory

ここでは「jMatsuzaki Factory」におけるこれからの活動についてお話しましょう。

≪jMatsuzaki Factoryの建設にあたって≫

この工場は、私のアーティスト活動の全てを集約するために建設しました。私の”屈折した美意識”から生まれる作品と、その制作工程も含めて全てご披露するつもりです。なので「Museum」ではなく「Factory」です。

主に以下のようなものを高い頻度で公開していきます。

・制作環境や制作プロセスについて
・作品のための習作や小品の公開
・完成された作品
・その他アーティスト活動に関するお知らせ

約4年ぶりに本格的なアーティスト活動を始められる状況となりました。心の奥底から尽きせざる噴水の如き情熱が沸き上がってくるのが分かります。きっとあなたとはこれから長い付き合いになるでしょうから、今日はご挨拶までとしておきましょう。

最後に1つ。アップルパイサイドへようこそ!

貴下の従順なる下僕 松崎より

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